1983年、新村(シンチョン)セベランス病院で、各科の診療室をのぞき込む医師がいた。泌尿器科教授、チェ·ヒョンギ(当時38歳)だった。彼は米国で男性にシリコーン器具を入れて勃起を可能とする手術法を学んで帰ってきたばかりだった。当時は、ほぼ唯一の勃起不全治療法だった。しかし、彼のメスは錆びていた。男性に問題が生じると、精力剤や漢方の補薬を先に探していた時代、「そこ」に刃物を突き付けようとした患者はいなかった。そのため、自分の手術台にのぼる患者を直接探しに出た。
チェ·ヒョンギが仲間医師の診療室で帰国したドイツ派遣鉱夫に会ったのは、ほぼ年末になってからだ。事故で脊椎をやられ、「男性」を失った彼は、チェ·ヒョンギと同い年だった。鉱夫の妻は、ドイツで彼を看護していたドイツ派遣看護師だった。精神的愛を信じて結婚した2人の「プラトニックラブ」は、破綻寸前だった。妻に対する夫の疑いがひどかったのだ。チェ·ヒョンギの説得で、鉱夫は手術台に上った。彼の妻が回復室を訪れた時、彼女は初めて堂々と立っている夫の男性を見た。彼女はそれを握り締めて泣いた。
男性医学という概念すら慣れていなかった時代、チェ·ヒョンギの手術は、その年の12月23日付新聞の社会面の隅に1段で掲載された。「不意の事故によって性不具になった患者、陰茎保形手術、国内初の試み」というタイトルの記事だった。勃起不全は、永久的不具(の産物)だったり、これといった治 療法がない精神的問題と思われていた時だった。彼の手術は、頭を下げていた男性で絶望していた人々の希望になるニュースだった。
30年経った今、チェ·ヒョンギ(68、延世医学大学名誉教授)は、相変わらず現役で活躍している。2010年、定年退職した彼は、66歳の若くない歳で開業した。キム·セチョル、ミョンジ病院長とともに、国内に手術的性治療を導入した主役だ。彼はまた、1984年、韓国で初めて性機能クリニックを開いた。去る30年間、4万人を超える男性を診療し、そのうち1000人以上を手術した。韓国泌尿器科の歴史は、1917年始まるが、男性医学分野ではチェ·ヒョンギが代表的第1世代だ。頭を下げた男性を立たせることは彼の一生の業であり、朝鮮戦争の中で死去した父、チェ·インテが果たせなかった夢であり、息子のヒョンミン(35)が歩むべき道でもある。3代続く泌尿器科専門医、それも延世医学大学の家だった。初手術から30周年を控えた韓国男性医学の開拓者に診療室で会った。チェ·ヒョンギが聞かせてくれた「韓国男性の昨日と今日は、19禁レベルを行き来した。
初めて手術に成功したチェ·ヒョンギは、翌年、新村で「性機能障害クリニック」を開いた。最近、泌尿器科で動画を見ながら、勃起をテストするのが基本だが、当時、国内ではそのような診断法自体がなかった。チェ·ヒョンギは、わいせつ物が流通していたソウル清渓川(チョンゲチョン)と東大門(トンデムン)市場で「赤いビデオ」を買ってきて、診断用に備えていた。それを見た医科大学の同僚教授らは、「チェ博士、そのうち、わいせつで捕まるんじゃ」と心配していた。「いま思えば、ギャグみたいなものですが、当時、男性医学はそれくらい不毛の地だったんです」。
チェ·ヒョンギにはVIP患者が殺到した。有名タレント、歌手、司法官、政治家、財閥総帥とCEO、元大統領の親戚などを診療した。秘密を守るのが容易くない大学病院だったが、VIIP(Very Important Impotent Person VIP級性機能不全患者)クリニックを作って運営した。「VIIPは、外で一緒に碁を打ったり、ゴルフをしたり、自宅を訪ねて診療したりしました。有名な政治家は、病院の職員が皆退勤した夜中に診療したこともあったんです」。彼の主専攻である手術的治療は、「いくら名医でも噂が出にくい」分野だった。
彼に手術を受けた大物政治家が、手術の翌朝、姿を消したことがあった。院務課職員は、「お金も払わずに夜逃げした」と憤った。その政治家に電話をかけ、一部始終を聞いた。手術翌日の明け方、まだ目を覚めてない中で誰かが「いや~おはようございます~」と挨拶してきたという。病室の掃除を担当していたおばさんだった。「嫁にすら知らさずに来た病院なのに、うわさが立ったらどうなるんです。衣服を持って振り返らずに出てきました」。彼は、「妻にも手術することを隠す人々が誰に話すもんですか」と笑った。チェ·ヒョンギは、「そんな分野で30年間持ちこたえました。いっそ手術器材を売っていたら、とっくにお金持ちになっていたはずです。ははは。妻にはいつも申し訳ない。」
しかし、彼は2010年開業した後、1年間看板をつけなかった。知ってる人は訪れるだろう、というこの分野の名医のプライドがあったからだ。
ソウル中区筆洞(ピルドン)で、皮膚泌尿器科を運営していた父親が亡くなったのは1950年だった。父親は36歳、チェ·ヒョンギは6歳だった。白いガウンを着た父親を見て、幼いヒョンギは、医者になりたかったが、泌尿器科専門医になるとまでは思っていなかった。テニスが好きだった彼は、修練医の時代、専攻選択を控え、2つを考慮した。第一、刃物(外科医)分野であること、第二、テニスを楽しむだけの余裕がなければならない、ということだった。その二つを満す分野が泌尿器科だった。彼は父親が京畿高校、セベランス医師になる前、テニス選手だったことを後で知った。チェ·ヒョンギは「テニス愛好遺伝子を受け継いでくれたので、結局、父が自分を泌尿器科へ導いたことに違いない」と話した。息子のヒョンミンが3代目として稼業をつなぐと言った時、チェ·ヒョンギは止めたかったと言った。「男性医学は、一人の男性の人生を左右するほどとても負担が大きいです。別の分野にしてほしかったです」。ヒョンミンさんの心ははっきりしていた。「父のおかげで幸せな家庭を築いた人たちが感謝の手紙を送ってきた。その手紙を読んでいた幼い頃、私の道はすでに決まっていた」。
チェ·ヒョンギは、身体中を流れる泌尿器科専門医としてのDNAを感じる時がある」と話した。2009年、チェ·ヒョンギは、新村(シンチョン)セベランス病院で、国内外の泌尿器科専門医約60名に対し「ライブサージャリー(Live surgery)」を行った。「手術を始めようとしたが、ヒョンミンが第1助手として私の前に立ったんです。」当時、ヒョンミンさんは、泌尿器科首席専攻医だった。彼は「驚くほど成長する手技を見る度、血は騙せないと考える」と語った。
70歳を目の前に控えたチェ·ヒョンギは、まだ一度も性医学の助けを受けたことがないと話した。一生やってきたテニスのおかげだ。「運動は、性機能を良くする酸化窒素(NO)という成分を作り出します。処方箋もお金も要らない「自然のバイアグラ」というわけです」。彼は「勃起不全は、私たちの身体の故障を知らせるシグナル」だと述べた。「昔、炭鉱の鉱夫たちは、坑道の中の一酸化炭素濃度を知るためにカナリアを伴いました。カナリアは、人より先に苦痛を感じ、死をもって危険を知らせます。男の男性こそ、私たちの体の「カナリア」です」。チェ·ヒョンギは、「性機能障害が6カ月以上続くと、それは絶対見過ごしてはならない」と述べた。
ためらわずに話していた泌尿器科専門医親子は、記者の質問の一言に咳払いをし、しらばっくれていた。「ヒョンミンさんが幼いころ、どうやって性教育をしてあげたのか」という質問だった。「そりゃ....別に、これと言った教育は、したことがないですね、はは」
イ・ギルソン 記者